『何時に帰る?』がなくなって、少し自由になった日々
玄関で靴を履きながら、ふと手が止まりました。
あれ、私、最近誰にも何も言わずに家を出ているな。
それに気づいたのは、彼と別れて3日目の朝のことでした。鍵を持って、バッグを肩にかけて、扉を開けて出ていく、たったそれだけのことなのに、なぜか胸の奥が晴れやかで温かいのです。
この感覚は何だろうと思いながら、駅までの道を歩きました。空が高くて、足取りがなんだか軽いのです。
ああそうかと気づいたのは、交差点の信号を待っているときでした。
誰にも、今日の予定を説明しなくていいからなんだ。
たったそれだけのことが、こんなにも気持ちを軽くするなんて。
しばらくの間、私はその感覚の正体を、うまく言葉にできずにいました。

「何時に帰るの?」
かつて私の「行ってきます」は、挨拶ではありませんでした。
正確に言えば「報告」でした。
一緒に暮らしていた彼は、決して束縛の激しい人ではありません。むしろ穏やかで、話していて居心地のいい人。怒鳴ることもなければ、「どこへ行くんだ」と問い詰めることもない。友人たちからも「いい人そうだね」とよく言われていました。
ただ、出かけようとすると、必ずこう聞くのです。
「何時に帰るの?」
最初は、気にしていませんでした。「心配してくれているんだ」と思っていました。
夕食の準備があるから確認したいのかな?とも思っていました。
それに、はっきり「帰ってくる時間を言え」と命令されたわけでもありません。ただ穏やかに、当たり前のように聞かれるだけです。
だから私も、当たり前のように答えていました。
「夕方6時ごろには帰るね」「遅くても8時までには」「夜は家にいるから」等々。
でもある時から、その言葉が「見えない砂時計」のように感じられるようになったのです。
玄関を出た瞬間から、サラサラと砂が落ち始めます。
友人とのランチが盛り上がって、「もう一軒お茶しよう」という話になっても、頭のどこかで時計が気になる。美術館でお気に入りの絵にやっと出会えても、その余韻に浸りきれない。百貨店で気になるものを見つけても「寄り道している時間はない」と素通りしてしまう。
「帰ると言った時間に遅れてはいけない」という、得体の知れないプレッシャーが、いつも足取りをほんの少し重くさせていたのです。
プレッシャーをかけているのは、彼ではなくて、私自身でした。それがまた厄介だったのです。
一度だけ、帰りが2時間ほど遅くなったことがあります。旧友と何年かぶりに再会して、話が尽きなくて、気がついたら夜になっていました。慌ててLINEを送ったら、彼からの返信は「了解」の一言だけ。
怒ってはいないし、責めてもいません。
でもその「了解」の短さが、何よりも応えました。帰り道、楽しかったはずの夜が、なんとなく後ろめたいものに変わっていき、駅のホームで電車を待ちながら、さっきまであんなに笑顔でおしゃべりしていたのに、なぜか胸が重いのです。

帰ってから話すという、もうひとつのミッション
家に帰ってからも、もう一つの任務が待っていました。
「どうだった?」
ソファでテレビを見ていた彼が、振り返りながら聞く。
それに答えることが、私にとってはいつの間にか「プレゼン」のようになっていました。
今日あった出来事を整理して、彼が退屈しないように、面白い部分をうまく切り取って、楽しそうに話す。話の流れを組み立てて、「オチ」のある話に仕上げて、彼が笑ってくれたら「今日のプレゼン、成功」みたいな気持ちになるのです。
変だなと今なら思います。でも当時は、それが「普通の会話」だと思っていたのです。
本当は、楽しかった余韻をもう少し自分の中で温めておきたいときもあります。言葉にしてしまうと、何か大切なものが薄れてしまうような気がして、そっとしておきたい時もあります。疲れていて、話したくない日もあります。
でも優しい彼を傷つけたくなくて、私は一日の報告を欠かしませんでした。
ある日、親友と久しぶりに会って、二人で笑いすぎて涙が出るくらい楽しい時間を過ごしました。帰りの電車の中で、その余韻をひとりで噛みしめながら、幸せだなあとぼんやり思っていました。車窓の外を流れていく夜の景色が、その日はやけに美しく見えたのです。
でも家に帰り着いた途端、「プレゼンモード」に切り替わる自分がいたのです。
どう話そう、どこから話そう、彼が面白いと思うのはどの部分だろう。
気がついたら、あの楽しくワクワクした気持ちがなくなっていたのです。
電車の中で感じていた、あの幸福感は、どこへいったんだろう。誰かに「報告」した途端に、その幸せが自分の手から離れてしまうような感覚は。
それがなんだか、悲しく残念だった。
もう一つ、思い出すことがあります。
ある週末、ふらりと一人で映画を観に行ったことがありました。誰かと一緒に観ると気を遣ってしまうような、静かで少し難解な映画。ずっと観たかった映画。
映画館を出たとき、感動でいっぱいでした。しばらく余韻に浸りたくて、すぐには誰とも話したくなくて、コーヒーを一杯飲みながらひとりでぼんやりしていました。
でも家に帰ると、「どこ行ったの?」という言葉が待っている。
映画の話をしました。内容を説明して、感動したことを話して、彼が「ふうん」と相槌を打つのを聞いた途端、なぜか映画の余韻が、霧散してしまった気がしました。
誰かに説明した瞬間に、自分の中にあった大切なものが、こぼれ落ちてしまうような感じがしました。
その感覚に気づいてから、私は少しずつ、「今日のこと」を心の中で抱えておく時間を大切にするようになりました。でも彼に何も話さないわけにもいかない。その板挟みが、じわじわと疲れになっていきました。

別れてはじめて気づいたこと
彼と別れたのは、ある春のことでした。
どちらかが悪いわけじゃない。ただ、お互いの「ちょうどいい距離感」が、少しずつ合わなくなっていったんだと思います。話し合いは穏やかに終わりました。怒鳴り合いも、泣き崩れることもなかった。ただ静かに、「もう無理だね」という気持ちが二人の間に漂っていました。
別れた直後は、正直、空っぽでした。
帰っても誰もいない部屋。「ただいま」と言っても返ってこない静けさ。夕食を一人分だけ作る、その物足りない感じ。テレビをつけても、なんとなくつまらない。
寂しいと思っていました。しばらくの間は、ずっと。
夜中に急に不安になることもありました。このまま一人で生きていくのか、誰かと暮らすことはもうないのかなという気持ちが、暗い部屋で膨らんでいく夜。
でも別れてから数日が経ったある日、思い立ってひとりで電車に乗りました。
降りる駅も決めない。帰る時間も決めない。ただ、気が向いた駅で降りて、知らない街を歩いてみようと思い立っただけ。
終点まで乗って、見知らぬ海沿いの街を歩きました。路地を曲がって、小さな古道具屋をのぞいて、漁港のそばの食堂でひとり定食を食べて、夕暮れに染まった海をぼんやり眺めました。誰にも、今日の行き先を言ってきていない。帰る時間を、誰とも約束していない。
夜の8時ごろ、最寄り駅の改札を抜けたとき、ふと笑いが込み上げてきました。
「ごめん、遅くなった」と謝る相手がいない。
改札を抜けながら、思わず口元が緩んだ。おかしいくらい、気持ちが軽かった。
今日のことを誰かに「プレゼン」しなくていい。海の色も、食堂のおかあさんの話も、古道具屋で見つけた古い手鏡のことも、全部自分だけの胸の中に温めておいていい。
その時、初めてわかりました。「時間が自分のものになる」ということの、本当の意味を。

「寂しくない?」と聞かれるたびに思うこと
60代になり、ひとりで生きる私に、周囲はよくこう聞きます。
「寂しくない?」
聞く人に悪気はない。むしろ心配してくれているんだとわかっています。でも毎回、少しだけ返答に迷う。
寂しいか、と聞かれればもちろん、そういう夜もあります。
ふとした瞬間に、隣に誰かがいたらなと思うことはあります。体の調子が悪いとき、おいしいものを食べたとき、きれいな景色を見たとき。「ね、これいいよね」と言い合える誰かがいたらと思う瞬間は確かにあります。
でも同時に今の私には、「自分に許可を出す自由」があります。
気が向いたら、知らない駅で降りていい。映画を2本続けて観てもいい。夕食を食べなくて、お菓子だけで夜を過ごしてもいい。気になるギャラリーがあれば、1時間でも2時間でも好きなだけ眺めていていい。「何時に帰るの?」に縛られなくていい。今日のことを、誰かに説明しなくていい。
先日、ふらりと立ち寄った小さなギャラリーで、一枚の絵に釘付けになりました。
どこにでもある、ありふれた港の風景。でもなぜか目が離せなくて、気がついたら40分以上、その前に立っていました。
誰かがいたら「そろそろ行こうか」と声がかかっていたかもしれません。でも一人だったから、飽きるまで眺め続けることができました。
その絵のことを、今もときどき思い出します。あの港の静けさが、今も胸のどこかに残っています。あれは、誰かと一緒だったら出会えなかった時間だったと思います。
喪失じゃなく、これは「解放」だった
「行ってきます」を言う相手がいなくなったことは、確かに何かが終わったことでもある。
でも今の私には、それが「喪失」だけには思えません。
あの見えない砂時計は、もうありません。玄関を出た瞬間から、時間は完全に自分のものです。どこへ行っても、何時に帰っても、誰にも申し訳ないと思わなくてもいいのです。今日の出来事を誰かにプレゼンしなくてもいいのです。映画の余韻にゆっくりひとりで浸ることもできます。
それは「解放」です。
一人で生きることの寂しさと、一人でいることの自由さ。その両方が、今の私の中にあります。どちらかだけというわけにはいかないのですが、でも最近は、後者の方がずっと大きくなってきた気がしています。
「寂しくない?」と聞いてくれる人には、こう答えることにしています。
「寂しいこともあるけど、自由でもあるよ」と。
今朝も、靴の紐を結びながら、ふと微笑みました。
どこへ行こうか。何時に帰ろうか。
今日は何に出会えるだろう。どんな景色が待っているだろう。どの駅で降りてみようか。
誰にも告げずに、扉を開ける。
その小さな自由が、今日も私の心を軽くしてくれています。
かつて心を縛っていた砂時計は、もうありません。時間は今日もまるごと私のものです。
それだけで、もう十分に豊かな気がしています。
